なんというか、他人との関わりの中では当然お互いに見える部分と見えない部分があると思うんだけど、その見える部分と見えない部分がどちらも存在するから人は人を好きになるし、嫌いになるのかなぁとか思う。
もし全て見えてしまえばそれはもう他者として認識出来なくなると思うんだよね。自己の範囲と見做すことの出来ないのが他人なのだから、逆に言うと全て見えているならそれはもう自己の範囲であり、好きとか嫌いとかじゃなくなる。
逆に何も見えなければ無論何も起きない。
と、ここで他人の醜い部分に過敏であるが故に殆どの人間を嫌いになってしまうというウルトラ損な性格をした自分の話になるけど、他に対しての(人物に限らずね)認識を閉じることで好きも嫌いも無くなってもっと上手いこと生きられるのかなぁとか思う。
まぁそんな逃げの姿勢と言うかスれた幼稚な厭世観みたいな物はこれ以上持ちたくないのだけれど、学生時代にあまりにも強く人を嫌いになってしまったために無駄に精神磨り減らす癖が付いてしまったので、一つの処世術としては持っていても良いのかなぁと思う。
まぁ人嫌い人嫌い言いながら思いっきり健全でフレンドリーな交友関係を求めているので、実践することの
リスクは大きいのだけれど。
精神衛生的には迎合して好かれるよりも意思を曲げずに他を嫌う方が健全だな。人を好きになることは素敵なことだと思うけど、嫌いになるのが悪いことだとは思わない。問題は「嫌い」を内に留めるかどうかなんだなぁ。
認識を閉じれば解決するけど、それだと終始独りよがりだ。客観的に見ても損な生き方だし、認識を閉じるのではなく認識を変えることが大事かな。相手は変えられないのだから。結局は自分だ。
認識を閉じるということ
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